2021/06/19

保護者からの手紙⑪


娘は高校生の時不登校になりました。

部屋から出てこなくなり、食事も家族がいないときにこっそり食べるような状態でした。
高校は出席日数が足りず、中退しました。
気持ちもすさんでいき、触るものすべてに腹が立つようで、
イライラして、家族にも当たり散らし、人が変わったようでした。
どうしていいのかもわからず、ただただ時間だけが過ぎていきました。

昼夜逆転し2年ほど部屋に引きこもって生活していた後、
急にコンビニでアルバイトを始めました。
家から外に出られるようになったと喜んでいたのもつかの間、
濃い化粧をし、髪の毛も金髪になり、また心配の種が増えました。

そんな時、夫が学生時代の友人で美術関係の仕事をしている人に
奈良にある絵の教室を教えてもらってきました。
娘は小学生のころから絵を描くのが得意で、
学校で選ばれて作品展に出品されたことも何度かありました。
娘も絵を描くことには自信を持っていたように思った夫は、
その特技を伸ばしていけばと考えたようです。

その教室の話をすると、娘は行くと言い、通うことになりました。
そこは、芸大を受験しようと考えている高校生が通ってきていました。
そういう環境のなかで、娘も芸大に行って絵の勉強をしたいという夢を持ち始めました。

そのためには高校卒業の資格が必要です。
娘と二人でいろいろ調べて、通信制の高校に申し込みました。
スクーリングは東京まで行かなければならなかったのですが、
ホテルを予約して、母娘で旅をしたことも今となっては楽しい思い出です。

おかげさまで、娘は通信制高校を卒業し、絵の先生のおかげで
大阪芸術大学に合格することができました。
家から通うには遠い大学ですが、毎日楽しそうに通い、卒業し、
今は文房具メーカーでデザイン関係の仕事についています。
自分がデザインしたはがきや便せんが売れることが励みになっているようです。

あの2年間はとても苦しい日々でした。
でも娘には必要な時間だったと思います。
子どもだった娘が考える時間があって、少しずつ大人になりました。

あの時、絵の教室を探してきてくれた夫にも感謝しています。今は娘がお給料で買ってくれたiPadでいろいろ検索し、夫と二人で旅行することが楽しみの毎日です。そして、娘は「一人暮らしをしたい」と、家の近くのアパートを借りて暮らし始めました。親としてはちょっと寂しい気持ちもありますが、自分の足で歩き始めた娘をただただ応援する気持ちでいっぱいです。


2021/06/13

卒業生からの手紙⑧

 

小学校高学年から人間関係がしんどくなり、一度転校しましたがそれでもダメでした。嫌われるのが本当に怖くて、ずっと無理をしていました。

「ASU」では同じような気持ちを持つ仲間がいて、先生達も私の事を考え、理解しようとしてくれました。でもその時はこじらせてしまっていたので、もっと素直になればよかったなと思っています。今振り返ると本当にいい環境でした。「ASU」は今でも心の支えです。

高校でも最初無理して、しんどくなってしまったけど、それでも理解しようとしてくれる友達に出会いました。以前は周りのせいにばかりしていましたが、周りのおかげで今があるので本当に感謝しています。自分から楽しもうとしないとどこに行っても一緒だと痛感しました。

でも、いまだに余計な事を考えてしまう癖が強く、治している途中です。自分を守る事ばかり考えて自分の本当にやりたいことを見失わないように必死に頑張っています。

いろいろな経験をしてわかったことがあります。自分自身で体験して本気で考えたことは自分のものになりました。

私が今思っていることを二つお伝えします。

「言ってもしょうがないこと」と思っても、誰かに聞いてもらうのはよかったです。頭でわかっていてもできないことがたくさんありました。口に出すこと自体が解決に繋がりました。

それと日記を書くのはとっても効果的でした。誰にも言えないことも手軽に書けると思います。今もたまに見返すと客観的になれます。高校の友達ともあと少しでお別れなので、毎日を大切に過ごそうと思います。

 ※大学進学をめざして勉強していらっしゃいます。


卒業生からの手紙⑦

 

先日、海外留学の説明会に行ってきました。他の人たちは友だちと誘いあって来ていて、一人で参加していたのは私だけでした。留学先では一人でホームステイをするのでだから、一人で参加することに何も感じていませんでした。


でも中学の頃の私はそうではありませんでした。友だちの顔色ばかり見ていました。「ASU」でコミュニケーション力もついたと同時に、一人で過ごす力もついたと思います。

「ASU」で過ごした日は、コタツの中でぬくぬくしているイメージです。世間は冷たい冬なのに、そこは過保護で優しくて温かい。そして今の私は、ちゃんとつぼみがついている自己イメージです。家族をはじめ、「ASU」の先生や友だち、たくさんの人に出会い、見守られ、支えられてきたことが今となってわかります。

        ※その後オーストラリアに留学されました。






卒業生からの手紙⑥

 学校を休み始めた2年生の夏、担任の先生から「ASU」のことを聞きましたが、その時はまったく興味がなく、家では昼夜逆転して、ゲームやネットばかりしている生活でした。父は特に何も言いませんでしたが、引け目みたいなものがあって、顔を合わすのもつらい感じでした。

2年生が終わる頃になって、このままではやばい、もうあとがない、という気持ちになり、「ASU」のことを思い出し、行くことにしました。僕は「ASU」に行くのは、遅れている勉強を取り戻すため、高校に行くため、と割り切っていて、そこで友だちを作りたいなどという気持ちはあまりありませんでした。でも結果的には、そこで出会った友だちは一生の友だちになりました。

 第一志望の高校に進学してからは、皆出席で3年間勉強に打ち込み、高校からの推薦で、希望通りの就職が決まりました。いろいろ心配をかけた父が誰よりも喜んでくれたのがよかったと思います。  

                   ※ 現在は国家公務員として勤務されています



 

卒業生からの手紙④

  僕が不登校になった直接のきっかけは、いじめられていた友だちをかばったことで、今度は僕がいじめられるようになったことです。その時、仲のよかった友だちが離れていき、裏切られた、見捨てられた、という気持ちになり、どんどん孤立していきました。

 でも、「ASU」で少しずつ自信を取り戻していくなかで、自分は間違っていなかったと思えるようになり、子どもの頃から人を喜ばせるのが好きだったことを思い出し、誰かの役に立てる人間になりたいと思うようになりました。

 高校の入学式で生徒会の先輩を見た時、かっこよくて憧れ、全く自信はなかったけれど、先生に相談して生徒会に入りました。多くの人の前で話すのも最初は緊張しましたが、それも次第に慣れ、結局生徒会長になりました。声の大きさも変わったし、何より話す内容がマイナス思考からプラス思考に変わったと言われます。 悩んだ日があって今の僕がいます。無駄なことなど何もなかったと思います。

          ※現在はJR西日本に勤務されています


卒業生からの手紙③

  学校に行けなくなって、心も体もしんどくて、買い物も犬の散歩もおっくうになりました。家族が気分転換に海に連れて行ってくれても、気分が晴れず、旅館でずっと寝ていたほどでした。でも、このままではいけない、高校に行きたいと思い、「ASU」に入りました。その頃は母とはケンカばかりで、気持ちがもやもやしていても、先生に話を聞いてもらうと気持ちがとても楽になりました。

 でも、このままではいけないという思いはありました。
 高校にも行きたいと思っていました。
 その時の私には、元の中学に戻るという選択はありませんでしたが、
違う場所なら通えるのではないか、
高校で1からスタートすればやり直せるのではないか、

という気持ちでした。

 中学で不登校になったことは、今の自分から見ると、
視野が狭く、心に余裕がなかったことに原因があったと思います。


 その頃の私は、自分がどう思われているかばかり気にして、とりあえずどこかのグループに所属することで安心感を得ようとしていましたが、自分の気持ちを抑えて、友だちに合わせることはとてもしんどかったです。


 そして人のことをよく知らずに判断し、自分から壁を作っていたように思います。自分のやりたいことなど見つけられるのかなと思っていましたが、今は自分次第だと思います。「支えてくれる人は絶対いるよ」と伝えたいです。


「ASU」に通った時間は短くても密な時間で、「心のよりどころ」のような場所でした。今は国家試験を目指して猛勉強しています。

※その後、国家資格を取得し、臨床検査技師として勤務されています

卒業生からの手紙②


 怪我で部活を休んだ頃から、友だちや顧問の先生となんとなく気まずくなり、焦りやストレスからもともと持っていたぜんそくの発作が頻繁に起こり、次第に夜も眠れないほどひどくなりました。

夏休みには発作も治まってきたのですが、2学期が近づくにつれてまたひどくなり、結局そのまま学校を休むようになりました。食欲もなく、痩せて病人のようでした。それでも勉強が遅れる不安から、教科書を広げてはみるものの、わからなくて、もう高校へ行けないと絶望していました。母は何も言わずにいてくれましたが、申し訳なさと罪悪感でつらかったです。

 中3から「ASU」に行って勉強を教えてもらい、「今さら」「どうせ」と思っていた気持ちに希望が生まれました。でも、高校入学後、出身中学を聞かれたときは、「ASU」とは言えませんでした。今から思うと自分に自信がなかったからだと思います。ボクシングを習うようになって、高校2年の時、不登校だったことを友だちに話しました。これで離れていくのならそれまでだと思いました。「そうなん?」と言われただけでした。ボクシングは一人の勝負なんです。友だちは大事ですが、群れていたいとは思わなくなっていました。

             ※ 現在は大学で英語を学んでいらっしゃいます

2021/05/28

卒業生からの手紙①

  私が「ASU」に来たのは、親からも逃げたかったからです。家にも居場所はありませんでした。その頃は屋根裏部屋に布団や好きな本を持ち込んでこもっていましたが、家にいてもむなしくなるだけでした。でも本当は「ASU」にも行きたくありませんでした。不登校の子ばかり通っている学校なんて、暗くて絶対おもしろいわけがないという先入観があったからです。

 でも「ASU」で出会った友だちは、気を遣わなくていい人たちでした。それまでの私は友だちの顔色ばかり見て合わせることに必死でした。にもかかわらず、友だちと呼べる子はいなかったかもしれません。グループからはじき出されないようにふるまっていただけです。「ASU」にはいろいろなタイプの子がいました。違う年齢の子とも仲良くなれました。それまで特定の子としか話をしなかった私が、誰にでも自分から話しかけていました。こんな私でもいいのだと思えました。

 不登校をしていなかったら、自分を見つめることもなく、仮面をかぶって、成長もしないままつまらない大人になっていたと思います。学校に行っていた自分とは違う「強さ」を手に入れたと思っています。私には必要な道でした。

      ※現在は看護師として働いていらっしゃいます。


昼夜逆転

Q1. 昼夜逆転はどうやってなおせばいいですか?


 A.  注意しなければならないのは、対処療法だけで昼夜逆転を
   修正しようとしても、根本的な解決にはならないことです。
   まずは、なぜお子さんが昼夜逆転の生活になってしまった
   のかを考える必要があります。



  今まで私たちがお会いしたお子さんの中で、昼夜逆転している時は、何らかの悩みやストレスを 抱えているケースが多いように感じています。

  それを聞き出そうとしても、うまく言葉にできずに黙りこんでしまうお子さんが多いのも事実です。急かしたり、決めつけたりせず、何かできることがあれば言ってね、という姿勢で、本人から話してくれるのを待つのがよいように思います。 

  また、昼夜逆転が「現実逃避」となっている場合もあります。朝、起きていると親御さんからの「学校に行ってくれるのではないかな」という期待を感じたり、行けない自分を否定して辛くなったりしてしまうのです。それなら寝ている(寝ているふりをする)方が辛くないのです。

 多くの不登校のお子さんと接してきた経験からいうと、親御さんの努力と工夫で昼夜逆転が改善できたというケースは残念ながらほとんどありません。昼夜逆転に限らず、親がこうなってほしいと思う通りに動いてくれることは、思春期以降はほとんどないと言っても過言ではありません。また、それが「自立」への正しい成長だとも言えるのではないかと考えています。

 お子さん自身の気持ちに変化が生まれれば、何かが変わってくると思います。「ASU」でも 1日で昼夜逆転を克服したお子さんを何人も見てきました。また、徹夜して登校し、夕方から眠って、真夜中に起き、また徹夜して登校する、というリズムで毎日来る子もいました。大切なのは、強制されたからではなく、自分で考えて動くことではないでしょうか。

そのために必要なのは、お子さんの中にエネルギーが貯まることです。ガソリンが空っぽの車のアクセルをいくら踏んでも走れないのと同じように、お子さんの中にガソリンがいっぱい貯まれば、きっとエンジンをかけることと思います。

 ただ、起立性調節障害や低血圧という身体の原因が潜んでいる場合もありますので、念のため、病院での診察を受けてみられることもお勧めします。